続日本紀の天平宝字6年丁未の記事によると、東海、南海、西海道の節渡使の料として綿襖冑各2万2百50具を造り、すべて唐の新様式と同様の5行の色にかたどる。皆甲板の形を碧(みどり)地には朱、赤地には黄、黄地には朱、白地には黒、黒地には朱でえがいて4千50具ごとに一つの色とした、と書かれている。即ち綿襖冑は布製で、中に麻や楮(こうぞ)類等を入れ、そとには甲板の画がかいてあるだけである。
遺物はないが中国、新疆(しんきょう)ウイグル自治区のトルフワンから発掘された木偶や敦煌莫高窟の張議潮出行図[晩唐]等に、これを想定せしめるものがあったため、それに依って考証した。蕨手(わらびで)の大刀を佩き、胡(やなぐい)を腰につるし、左手には鞆(とも)をつけて木製の弓を持っている。 |