平安時代中期に完成した公家服飾は有職故実の一つとして伝承されて来たが、平安後期に既に有職故実に対する解読書の「まさすけ装束抄」が出され、院政時代鳥羽上皇の頃から儀式的な強装束[こわしようぞく]が用い出されるとともに装束の調達、着装技術も専門化し、強装束の創案者と伝えられる源有仁公の流れをうけた徳大寺、大炊御門の両家がその技能をうけつぎ衣紋道[えもんどう]を立てたが後にこの両家の伝承は大炊御門家より高倉家へ徳大寺家より山科家へと移り、室町時代中期にはこの両流が衣紋道の家元となって、今日に至っている。
公家の社会は常に新しい服制を拒否していたが、足利氏は京都室町に邸を構えて公家風をならい、公家も又武家風をならうこととなり、武家の式服である直垂は却って狩衣より重視されるようになった。この流れは後の江戸幕府の服制にもうけつがれ、狩衣が4品[従4位下]の用となれば正4位参議、侍従以上を含む3位以上は直垂という規定も生まれることとなった。
特に公家にあっては武士の折烏帽子にかえ立烏帽子や風折烏帽子が用いられ、将軍など高位の武家に於いては又この公家風の姿を用いるなど混用が見られる。
この図は、立烏帽子に直垂、末広[中略]足は素足姿の公家とした。 |