[服制の成立]
●
縄文式文化の時代
●
弥生時代
●
古墳時代
●
推古・飛鳥時代
●
奈良時代
[和様の創製]
●
平安時代
[武装の伸展]
●
鎌倉時代
●
室町時代
●
安土・桃山時代
[小袖の完成]
●
江戸時代
[洋風の摂取]
●
明治・大正・昭和時代
●
昭和時代前期
縄文
・
弥生
・
古墳
・
飛鳥
・
奈良
平安
鎌倉
・
室町
・
安土桃山
江戸
明治・大正
・
昭和前期
江戸時代前期の正装の公家女房
小袖姿の慶長頃の上流婦人
江戸前期小袖姿
元禄時代小袖姿
長直垂をつけた大名
狩衣、指貫をつけた四位の武家
大紋長袴をつけた大名
素襖をつけた武士
肩衣長袴をつけた通常礼装の高級武家
殿中に於ける茶道頭礼装
冬の束帯をつけた公卿[文官]
夏の束帯をつけた武官の殿上人
蹴鞠装束と蹴鞠
江戸後期・正装の公家女房
紅の大腰袴をつけた公家女房
江戸後期の大奥上臈夏の腰巻姿
江戸時代庶民年中行事絵巻[1巻]
褊綴姿の俳人
紙子羽織を着た町人
紙子襦袢をつけた町人
公家姫君の私的な晴れ姿
公家奥方の外出姿
釆女
小道服をつけた褻の姿の大名又は公家
虚無僧
旅装の雲水
茶人、十徳姿
歌舞伎「暫」
能・狂言の果報者
能・狂言の太郎冠者
島原太夫晴れ姿
夏の晴着の歌妓
小町踊
袖頭巾をかぶる婦人
大津絵に描かれた藤娘
等身大の享保雛、男雛、女雛
文楽人形
夜着
江戸時代後期の夏の帷子の小袖
引廻し合羽をつけた道中姿の町人
半合羽をつけた道中姿の町人
鎖襦袢、額当をつけた斬込みの武士
武士火事装束
江戸町火消、火事装束
幕末鎧直垂陣羽織をつけた大名
白無垢花嫁
京の豪商の娘・婚礼色直し
町家の若嫁
町方女房前帯姿
下女
婦女結髪模型、14種
婦人用袋もの
島原太夫晴れ姿
太夫というのは元来中国にならった官位の称号で5位相当の職で公家では殿上人であり、江戸時代でいえば大名に当たる地位で、遊芸人の敬称に用いられた。江戸時代には高級な遊女を太夫の名で呼ぶようになり、特に京都の遊廓は伝統と權威を誇っていたので太夫といえば島原ということになる。京都で「くるわ」が公認されたのは、応永年中で足利義満が許可した九条の里で、応仁の大乱後二条万里小路に移り大きな柳が2本あったので柳町といわれ、今もその跡を柳馬場といっている。公許は天正17年[1589]で更に慶長7年六条に移り、六条三筋町といわれ吉野太夫は才色兼備として今なおその名が知られている。その後、都市の発展にしたがい、都市部を離れ郊外に追われた、これが現在の島原で正しくは西新屋敷という。寛永17年[1640]この地に移転した時の騒ぎが当時の大事件であった島原の乱にも似ていたので、人々はここを島原と称したと伝えられている。
島原の太夫の装いがその頃から今のようであったわけではない。江戸時代を通じ、ますます豪華になってついに幕末を迎えた。ここではその頃を想定した。髪は京風の兵庫、前髪にはべっこうの大櫛に8本の笄、後髪には6本前後左右に前びら、櫛止め、花かんざしなど10種以上、目方はしめて3キログラム、太夫道中の時には6キログラムにも及ぶという、緋の長襦袢に白の刺繍のかけ襟、襟は折返して裏の緋をのぞかせている。中着は裾綿入りの3枚重ね。一番上の間着にはいわゆる島原褄といわれる刺繍の文様がある。これは褄から衽、胸にかけて拡がっているものをいう。次は白地、三枚目は緑地、幅広の帯を前でのし結びにしてその上から美しい打掛をかける。打掛の文様は自由であるがここでは黒地に紋づくしの文様とした。足は古式のままに素足である。道中には3枚歯の黒塗りの下駄をはく。3枚歯の下駄は文化、文政のころからのものといわれ、夏冬通じてこの姿である。戦後公娼廃止となり現在の太夫は観光客のためにその形を保持し芸妓として伝統を残している。
1 笄(こうがい)
2 大櫛(おおぐし)
3 前びら
4 打掛(うちかけ)
5 帯
6 中着(なかぎ)
page top
風俗博物館
〒600-8468 京都市下京区堀川通新花屋町下る(井筒左女牛ビル5階)
TEL:075-342-5345 FAX:075-351-6947
ご意見、お問い合わせはこちらまで
(館長 井筒 與兵衛)
Copyright(C)1998,COSTUME MUSEUM All Rights Reserved.