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日本服飾史

江戸時代


  

江戸町火消、火事装束


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江戸時代、消費都市として人口の稠密を見た江戸は又火災も多く、「火事と喧嘩は江戸の花」といわれる程であった。  この火事に対する消防組織は武家屋敷の火災には、大名、旗本があたり、町衆は町人自身の消化活動が基本となり、はじめは大名による大名火消、ついで万治元年[1658]旗本を中心とする定火消、更に寛保3年[1743]町奉行大岡忠相(ただすけ)により町人自身による消防体制の組織化がはかられた。その後の若千の変化はあるが,基本は隅田川以西の町々を凡そ20町ごとに47の小組にわけ「いろは」を以て名づけ、又、隅田川以東は16の小組にわけ、纏(まとい)や幟(のぼり)を定めて各自の目印とした。いろはの小組は10番の大組にわけ、隅田川以東の16の小組は南、中、北の大組とされた。町火消は町奉行の監督の下に火消人足改という掛りの与力、同心が担当、指揮したが、経費は町方の自治組織の負担であった。  消化活動は竜吐水という小さなポンプを使うだけで、破壊消防を主とした。従って鳶(とび)人足といわれる専門家を雇うことが主体となり、定抱えと平常は若千の手当を支給し、火災の時に参入する駆付人足とにわかれた。鳶人足[火消人足]は各組ごとに頭取(とうどり)[鳶頭(とびがしら)]、纏持(まといもち)、梯子(はしご)持、平(ひら)[人足]という階層があり、これ等の人達は町内からの若千の給与と半纏(はんてん)、股引、頭巾などを支給された。  ここに示したものは刺子の頭巾、刺子半纏、袖口刺子下着に帯をしめ、刺子手袋に鳶口を持つ姿で、下に腹当、股引、紺足袋、わらじをつけている。  刺子の頭巾は十四番組所属を示すもので、嘉永4年の配置図によると隅田川大川橋東側の中の郷あたりの所属を示し、北組に属している。

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1 刺子頭巾(さしこづきん)
2 刺子頭巾の垂(た)れ布(ぬの)
3 刺子半纏(はんてん)
4 腹当(はらあて)
5 帯(おび)
6 刺子手袋(てぶくろ)
7 鳶口(とびぐち)
8 股引(ももひき)
9 紺足袋(こんたび)
10 わらじ

江戸町火消,火事装束[晴れ]ー正面


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刺子半纒には火事場の華と云われた纒持の姿が染め上げられている。この纒の図は隅田川以西の一番組を示す、芥子に桝という円と角がつけられている。この一番組には、い、は、に、よ、万の五の小組が属している。この半纒は片側には印がつけていない無地になっている。火事場ではこの無地の方を表にして着け、消火が終わると派手な絵模様のある方を表にして帰路につくという。又鳶としての晴れ着としても用いたと思われる。  身の前側に「長組」という文字が見られるのは小組の中に更に下部組織を示したものであろう。従って頭巾の組と同一人の使用したものではない。  袖口刺子下着にも染付けがされ、袖口だけ刺子として腕の部分は簡略化されている。  刺子手袋にも二重の丸に内側に文字のある表示と「二」が染抜かれている。二番組所属のろ、せ、も、す、百、千、いづれかに所属しているものであろう。前記と同一人の所用ではない。  帯をしめる場合は下着の上であってもよく半纒の上からつけることもある。しかし、帯を除く上記4点は江戸後期の遺品である。

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1 手拭(てぬぐい)で鉢巻(はちまき)
2 刺子半纒(はんてん)の絵模様(えもよう)のある方
3 刺子の下着
4 腹当(はらあて)
5 帯(おび)



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