栄花物語、太皇太后宮田植御覧の条に「若うきたなげなき女ども5、60人ばかりに裳袴というものいと白く着せて」とあり、四天王寺の扇面古写経にも見える。又まさすけ装束抄にも「ひすまし」という便器を扱う女が裳袴をつけるという事が記されている。元来は低い身分の人達の用いるものであったが、鎌倉時代になると小袖が下着から間着や表着として用い出されるにつれてこの裳袴というものも上級の女房達に用い出された。
一般の用になるにしたがい、色ものも文様のあるものも使われた。これは襠のない、いわゆる行燈(あんどう)袴と呼ばれるような姿で、短い袴とも裳とも解されるのでこの名がある。腰[紐]は袴と同じように右脇で長く結び垂れる、法然上人絵伝第34巻の室の泊りの遊女をのせる舟人の姿にもこの小袖裳袴が見られる。
ここでは黄地、薄紅の襷文様の絹の小袖に綾地立涌紅据濃の裳袴姿とした。 |