六條院は、政治家としての権力と地歩を固めていく光源氏が造営した大邸宅である。源氏三十四歳の秋に着工し、三十五歳の八月に落成した。この邸宅は、六条京極(きょうごく)辺に四町を占め、六条御息所(ろくじょうのみやすんどころ)の旧邸を西南の一郭に含み計画されたものであった。その敷地は約二百五十二メートル四方、総面積六万三千五百平方メートルである。この広大な邸を四町に区切り、春夏秋冬に配した各町に、四季を楽しめる庭と建物が工夫されていた。
そして光源氏は、それぞれの町の季節に、ゆかりある女性を主人として住まわせたのであった。すなわち東南(辰巳)の春の町の東対には紫上が住んでいた。この町は、寝殿(しんでん)・東対・西対・北対から成っていて、源氏四十歳の時に迎えた正妻女三宮は、寝殿の西面に住まいした。源氏自身もこの町に住み、六條院の中では一番華やいで賑わいをみせた町であった。
次いで東北(丑寅)の夏の町の東対には、花散里が住んでいた。この町の東面は、五月の競馬(くらべうま)の遊び場として馬場、馬場殿(ばばどの)、厩舎(うまや)が設けられていて、馬場は一直線に東南の町にまで及んでいた。また源氏の養女として引き取られた玉鬘は、西対の文殿(ふ どの)を移してこの町に住んだことが描かれている。
そして、元は六条御息所の旧邸のあった西南(未申)の秋の町には、その娘の秋好中宮が住んだ。この御殿の池は、春の町の池と続いていており、「胡蝶」には、二つの町を船で往き来する様子が描かれてる。双方の町の華やかな様子が、船楽の催しを通して華麗に描かれている。
また明石の君が住む西北(戌亥)の冬の町は、その北面が御倉町となっていて、大きな対二つに廊がめぐらされていた。
「若菜上」には東宮妃になった明石姫君が、お産の時にこの町の二の対に移ってきたことが描かれている。
このようにそれぞれの町は、風雅な情景を競って創造し、宮中に擬した建物として六條院は存続した。そこでは、宮中以上に自由な源氏好みの演出が可能であり、その中で光源氏は、理想郷の統監者となり准じゅん太上天皇(だじょうてんのう)
という地位を極めたのである。六條院は、光源氏を取り巻く複雑な人間模様を凝視する舞台となっている。
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