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貴族の生活

源氏物語の住まい


文/池 浩三
寝殿造の構成

十世紀の初めごろ平安京で完成した貴族住宅の様式を寝殿造(しんでんづくり)と呼んでいる。公卿といわれる上級貴族の邸宅の敷地は一町(方四○丈、約一二○m四方、面積一万四四○○平方m)を基準としたが、摂関家の東ひがし三条殿(さんじょうどの)や京極土御門殿(きょうごくつちみかどどの)は二町、『源紙物語』の主人公・光源氏の六條院(ろくじょういん)は四町を占める。この敷地四辺には築地(ついじ)(土塀)がめぐり、東西および北に門をく。南は園池となるので門を設けない。東西の正門は四足門(よつあしもん)という格式の高い構えで、おおむね大路に面する側が表向きである。邸内の東西ほぼ中央に東西棟(棟(むね)の方向が東西)の寝殿が南面して建ち、その左右に南北棟の対(たい)(対屋(たいのや))があって、透渡殿(すきわたどの)という吹放しの廊渡殿(やわたどの)で連絡される。寝殿は儀礼上主人の正式の居所であって、日常の家庭生活の場はむしろ対ということもあった。対という漢字は「向い合った一対(いっつい)」を意味するように、対は寝殿を中にして左右対称に建てられるのを原則としたが、大邸宅では寝殿や東西の対の北側などにもいくつかの対や廊があった。 また渡殿には曹司(ぞうし)(部屋)があって、女房たちの私室にあてられる。湯殿(ゆどの)や樋殿(ひどの)(厠(かわや))もこの近くにあったらしい。そして、東西の対からは廊が延びて南庭を囲む。東西の廊には中門(ちゅうもん)・侍所(さむらいどころ)・車宿(くるまやどり)などを設け、普通表向きの廊の南端には池にのぞんで納涼・遊宴のための釣殿がある。西廊には光源氏の二条院のように小さな仏堂を設けることもあった。南庭には白砂が敷きつめてあって、さまざまな儀式や舞楽が行われた。遣水(やりみず)は東の渡殿の下から前栽(せんざい)のなかを縫うように流れて南の池に注ぐ。池には築山(つきやま)をなす中島があって、その島々の間に丹塗(にぬり)の唐橋(からはし)が架けられていた。『紫式部日記』や『源氏物語』の「胡蝶」の巻には、池に龍頭鷁首(りゅうとうげきす)の船を浮かべて、詩歌管絃(しいかかんげん)の遊びに興じたようすが美しく描かれている。

ところで、寝殿という名称は古代中国において冠婚葬祭の儀式が行われた正寝(せいしん)に由来するもので、神聖殿を意味する。つまり正寝の建築形式をその祭祀儀礼とともに取り入れ、これを国風化したものといえるが、中国の正寝は牆(しょう)(土塀)に囲まれた庭(てい)に南面して建ち、庭の南正面に中門、さらにその外に大門を設けるという構成で、殿舎の軸線は南北を貫く。ところが、儒教はそもそも専制君主・父系制社会の思想であるから、婿取婚(むことりこん)(招婿婚(しょうせいこん))が行われていた平安前・中期の母系制貴族社会には、その中国の住宅形式も儀礼もそのままではなじまないものであった。そこで当時の婚姻制に示される家族形態に合うように、東西の大門・中門という東西軸を折衷した。それが寝殿造成立の理由だと考えられる。東西の対に娘たちが住んでいて、そこへ婿が通ってきたり同居したりするわけで、「住む」とは本来そのことを意味した。寝殿造の構成にはそういう婚姻制が反映しているといえる。内裏の場合は、正寝としての紫宸殿が南庭に面し、その南正面に中門にあたる承明門(しょうめいもん)、大門にあたる建礼門を設ける。そして対に相当する清涼殿(せいりょうでん)、綾綺殿(りょうきでん)、その他後宮の諸殿舎の全体的構成は南北軸に配置するが、これはその内実はともかく、天皇家が父系制をとっていたことと関連があろう。


殿舎の構造

敷地一町の上級貴族の邸宅では、寝殿は桁行(けたゆき)(東西)五間、梁間(はりま)(南北)二間の母屋(もや)を中心とし、その四周に一間の廂(ひさし)をめぐらす。

このような平面構成を「五間四面(ごけんしめん)」というが、普通梁間は二間と定まっているので省略する。一間の柱間寸法は三mぐらいである。柱は丸柱、床は板敷、廂の外側は簀子(すのこ)で、高欄(こうらん)がめぐり、南正面に五級しな(段)の階段があって、階隠(はしがくし)という庇屋根をかける。廂と簀子の境には建具が入るが、まず寝殿の東西面の南と北の端に妻戸(つまど)(両開きの枢戸(くるるど))を設けて通常の出入口とする。そのほかは格子(こうし)に簾(すだれ)をかける。南正面は儀式上の都合から一枚格子、ほかは二枚格子であったようだ。一枚格子は京都御所の紫宸殿や清涼殿のそれのように内側に吊り上げるもので、簾は格子の外にかけられる。二枚格子は社寺建築によくみられるもので、上方一枚を外側へ吊り上げ、下方は掛金(かけがね)で固定する。そして内に簾をかける。東西の対も、棟の方向が南北となるだけで、平面規模など内部の構成はほぼ同様である。これら殿舎の屋根は檜皮葺(ひわだぶき)であって、寝殿は入母屋(いりもや)造、対は切妻屋根の妻側に庇を付けた縋波風(すがるはふう)という形式であったらしい。寝殿と対の屋根構えに格差を付けたのであろう。このような優美な檜皮葺の殿舎群の俯瞰(ふかん)的景観を、当時の人びとは「三つ葉四葉の殿(との)造り」と、枝分かれした草の葉の姿にたとえている。このほか、北の築地沿いには下屋(しものや)とよぶ板葺の雑舎や瓦葺の倉などが多く建ち並んでいたようである。『枕草子』は、「雪は檜皮葺、とても美しい。雪が少し消えかかったとき、または少し降って瓦のつぎ目に雪が入った、その瓦の黒と白の取り合わせ、これもいい。時雨(しぐれ)・霰(あられ)・霜は板屋」と、自然現象のなかの屋根の異なる情趣を見事にとらえている。

さて、組入(くみいれ)(格子状の天井)のある寝殿の母屋の西または東の二間、対では北の二間は土壁で囲んだ塗籠(ぬりごめ)という部屋である。その出入口は元来は一か所であったが、のちには日常生活や儀式の都合から数か所に設けられるようになった。扉は両開きの枢戸(くるるど)である。柱だけのがらんとした空間のなかにこういう密室があったことは寝殿造の注目すべき特質といえよう。長和五年(一○一六)の京の大火で、藤原道長の京極土御門殿が焼失したことを、『栄花物語』の「玉 の村菊」の巻は記しているが、その記述に「年来(としごろ)の御伝り物ども、数知らず塗籠にて焼けぬ」とあるように、塗籠には先祖伝来の宝物が唐櫃(からびつ)や厨子(ずし)に納められて置いてあった。また、天皇の常つねの御所(ごしょ)である清涼殿の塗籠(夜御殿(よるのおとど))には、御帳台(みちょうだい)(寝台)のかたわらに剣璽案(けんじのあん)が安置してある。剣璽とはいわゆる三種の神器のうち草薙(くさなぎ)の剣(つるぎ)と八坂瓊曲玉(やさかにのまがたま)のことであって、天皇はこの皇位の象徴である神器と共に寝ることが任務であった。塗籠とはそういう神聖な部屋なのである。当時、貴族が寝ることを「大殿籠(おおとのごもり)」といっているが、それは本来大殿すなわち夜御殿に籠(こも)って寝ることであった。つまり、貴族は家宝に宿る祖先の霊に守護されて眠り、またその霊と交 感することによって、新しい精気を養う、という古代的な意義があったのであろう。

平安時代の人びとは物怪(もののけ)という存在を本気で信じていた。生霊(いきりょう)・死霊(しりょう)などの物怪は病人や産婦の衰弱した体にとり憑(つ) いて苦しめ、ときには死に至らしめるものと考えられていたから、これを打ち破るための加持祈祷が盛んに行われた。この物怪を避けるために、塗籠に籠ることもあって、紫式部の仕えた中宮彰子が敦成(あつひら)親王(後一条天皇)を出産した際、その産前産後の御座所は土御門殿の寝殿の塗籠であった。また婚礼において、「衾覆 (ふすまおお)い」という夫婦の共寝する儀式が行われるのも塗籠であるし、貴族が臨終を迎える場所もまた塗籠であった。例えば『権記(ごんき)』には、一条天皇の遺骸は里内裏(さとだいり)一条院の塗籠「夜御殿(よるのおとど)」に安置されたとあるし、『讃岐典侍日記(さぬきのすけにっき)』にも、堀河天皇が清涼殿として使われた堀河院の西対の塗籠で亡くなったようすが詳しく書かれている。こうした作法はだいたい中国の儒教の教典から学んだものである。


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