推古天皇の頃の服装は其の形状は全く不明であった。旧法隆寺蔵の聖徳太子像も天武朝頃のものというのが通説となっていたが、昭和47年3月の高松塚古墳の発掘によって太子御像は、天武朝よりもさらに時代が下るものと考えられる。またこの発掘によって壁画の姿より勘案すると、中宮寺の天寿国繍帳に表現されている服装は、推古朝の当時のものと考えてよいように思う。
日本書紀には次のような記述がある。
「推古天皇11年12月戉辰朔壬辰、始めて冠位を行ふ。大徳、小徳、大仁、小仁、大礼、小礼、大信、小信、大義、小義、大智、小智あわせて12階、並びに当色の(きぬ)を以て縫へり頂は撮(とりす)べて嚢の如くし、縁(もとほり)を着けたり、唯だ元日に髻(うず)華を著(さ)す」
「13年閏7月己末朔、皇太子、諸王諸臣に命じて褶(ひらみ)を着せしむ」
「16年秋8月辛丑朔癸卯唐客京に入る…中略…亦衣服は錦紫繍織及び5色の綾羅を用ふ[一に云く、服の色は皆冠の色を用ふ]」
また隋書倭国伝には「其服飾男子 衣裙襦 其袖微小 履如形 漆其上之於脚……至隋其王始制冠 以錦綵為之以金銀鏤花為飾」とあり、よく相一致している。
ここにはじめて、推古天皇11年制定同13年に附加された冠位と、服装の考証を試みた。
聖徳太子を想定し、朱華即ち黄丹の冠、黄丹の袍とし、冠の縁と袍の縁は萠黄の錦、袍は有襴、長紐は白絹、下襲は白、褶は黄、表袴は萠黄綾、裏の紅で縁どっている。 |