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虫垂(むした)れぎぬ姿
貴族の女性の外出姿で、袿(うちぎ)をからげ、裾をつぼめるので「壺装束(つぼしょうぞく)」という。懸(掛)帯をかけ、首に懸(掛)守りを下げ、足には緒太の草履(ぞうり)をはく。頭には菅や藺(い)で編んだ笠を被(かぶ)り、笠には「苧(お)(真麻)」で作られた布を垂れる。これは顔を隠すためであるが、虫除けにもなるという利点がある。市女笠を被るので「市女姿(いちめすがた)」とも言う。
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平安京の中でも左京の北半部は上級貴族の大邸宅が多く、華やかではあるがどこか取り澄ました風情の高級住宅街となっていた。一方、左京でも南半部には庶民の家が密集し、猥雑(わいざつ)ではあるけれども賑やかでエネルギーに満ちた空間を創り上げていた。その中心となるのは、南部を東西に貫く七条大路である。この七条大路に面して、左京と右京にはそれぞれ公設の市場が設けられていた。東市(ひがしのいち)と西市(にしのいち)である。東市、西市ともに、七条大路に面した四町(約二五〇m四方)を占めていたし、さらにはその周囲に八町に及ぶ「外町」という附属区画を持っていた。
そもそも、平安京の当初計画では、京内において品物の売買ができる場所は東市と西市だけに限られていたのである。これだと、京の北端近くに住む人ならば、買い物に行くのに市まで三〜四kmを移動しなければならないことになる。これはやはりかなり不便なことであり、平安京の成熟とともに各地に小さな商店街ができたり、振り売りの行商人があちこちで商売を始めることになる。
当時の市は、単なる商店街ではなかった。平安時代中期の僧・空也上人は、「市聖(いちのひじり)」と呼ばれた通り、東西の市において念仏を唱え、布教活動をおこなうのを常としていた。また、罪人の処罰も市でおこなわれることがあった。東国で反乱を起こした平将門が誅せられた際、その首は都に運ばれ、東市において晒(さら)されたと伝えられている。人々の集まる市は、さまざまな社会活動の実践の場となったのである。
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