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六條院四季の移ろい

睦月(むつき)(一月)


ウメ
ウメ
アセビ
アセビ
ミツマタ
ミツマタ
ツバキ
ツバキ
マンサク
マンサク
ネコヤナギ
ネコヤナギ
餅鏡(もちかがみ) 一日〜
* 平安時代には「もちひかがみ(餅鏡)」もしくはたんに「鏡」といった。正月、餅を丸く平たく作り、二重、または三重に重ねて、飾り置く。歯固(はがため)の餅は食するが、餅鏡は食さずに見て安寧(あんねい)を祈るものであり、別物である。『栄花物語』「つぼみ花」の巻に、三条天皇皇女禎子内親王が生まれた翌年の正月条に、餅鏡を見せるくだりがある。また『源氏物語』「初音」の巻にも、「ここかしこに群れ居つつ、歯固の祝ひして、餅鏡をさへ取り寄せて、千年のかげにしるき、年の内の祝ひ事どもして…」とある。現在も鏡餅としてつづく風習である。
歯固(はがため) 三が日
「歯」は「齢(よはひ)」のこと。年頭にあたって、齢を固めて健康と長寿を祈る行事。元日からの三日間、餅とともに大根、瓜、芋、雉(きじ)の肉、押鮎(おしあゆ)(塩漬けにして、おもしで押した鮎)等々を食する。『枕草子』は、その食材について、「齢を延ぶる歯固の具」と書いている。宮廷では御厨子所(みずしどころ)より天皇に献ぜられ、膳には譲葉(ゆずりは)が敷かれた。紀貫之の『土佐日記』に、船中で正月を迎えたために歯固もなく、土佐の名物である押鮎の口のみを吸った、というところがある。
供御薬(みくすりをくうず) 三が日
歯固(はがため)の後に行われる行事で、歯固と一連の行事として行われる。正月三が日に、御薬(みくすり)が典薬寮(てんやくりょう)より天皇に供せられる儀式で、清涼殿(せいりょうでん)で行われた。御薬とはここでは屠蘇(とそ)をさす。大黄、桔梗等、何種類もの薬草を調合したもので、効験の高い霊薬とされた。典薬頭(てんやくのかみ)、侍医がまず嘗め、あらかじめ薬子(くすりこ)として定められた未婚の少女に毒味(どくみ)として飲ませる。ついで、女官を通じて天皇に献上された。三日目には、それがすむと膏薬(こうやく)が天皇に供せられた。
子(ね)の日遊び 最初の子の日
* 正月の子の日、とくに最初の子の日に、人々は野に出て、小松を根から引き抜いて健康と長寿を祈った。「ねのび」(「根延び」を掛ける)とも言う。松は常緑であり長生の木とされたため、それにあやかろうとした行事である。平安時代の歌人、壬生忠岑の歌に「子の日する野辺に小松のなかりせば千代のためしに何をひかまし(子の日の遊びをする野辺に、小松がなかったならば、千代も生きる長寿の例として、何を引いたらよいのだろうか)」がある。またこの日、若菜も共に摘んで食した。『源氏物語』「若菜」の巻にも、小松を引き、若菜を摘む様子が登場する。
白馬(あおうま)の節会(せちえ) 七日
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上賀茂神社「白馬奏覧神事」
正月七日、天皇が豊楽殿(ぶらくでん)(後に紫宸殿(ししんでん))に出御、庭に引き出される白馬を御覧になり、群臣と宴を催す行事が白馬の節会である。中国の陰陽五行説に基いたもので、春に陽のものを見るとその年の邪気を避けることができるとされた。春は青色(ちなみに夏は赤、秋は白、冬は黒)、馬は陽の動物とされ、両者が結びついて春に青馬を見るようになったと考えられる。天暦の頃、村上天皇の時代に、「青馬」は文献の上で「白馬」と書かれはじめる。中国では青を高貴の色とし、日本でもこれに倣ったが、国風文化の発展とともにこの頃白を最上位に置くようになり、また穢(けが)れを払う意味においては白がよりふさわしいという思想によるものと考えられている。元来、「青」の語がさし示す色は幅広かったらしく、「青馬」とはぼんやりとした灰色のような馬であって、それに「白馬」の字を、後に先述の理由によってあて換えたとも考えられる。しかし「あおうま」の読み方は変わることがなかった。

藤原定家の和歌に「いつしかと春のけしきにひきかへて雲井の庭にいづる白馬(早くも春の様子になってきたなあ。宮廷の庭に、白馬が引き出されたことだよ)」という、この行事を詠んだものがある。『源氏物語』「少女」の巻では、藤原良房が私宅で白馬節会を行った例に倣うとし、光源氏が自邸である二条邸において行っているが、当時貴族の私邸で白馬節会が行われたかどうかはわからない。

現在、京都の上賀茂神社や大阪の住吉大社などの神社で、神事として行われている。

平安時代の「あお」

* 平安時代の人々が概念としてもっている色の種類は、現代のわたしたちに比べてかなり少ない。そのなかでも特徴的なのがアオである。アオはアカ(赤)とクロ(黒)の中間にある幅広い色を指したらしい。黄・緑・茶・灰などの色がすべてアオと表現される可能性をもっていた。さらに、白に灰色が混ざった色の状態もアオとよばれている。「白馬の節会」の「白馬」を「あおうま」とか「あおま」と訓むのは、一般に白馬といわれる馬が、実際は灰と白の混ざり合った色をもっていたからである。現代でも川沼などでよく見かける大形の鳥、アオサギ(青鷺)をアオと表現するのも、同じ色の感覚が伝わっているからであろう。

ツバキ
ウメ
ソシンロウバイ
ソシンロウバイ
セツブンソウ
セツブンソウ
オウバイ
オウバイ
ウメ
ウメ
卯杖(うづえ) 最初の卯うの日
卯杖は邪気を祓(はら)う杖。正月の最初の卯の日に、大学寮から、後には諸衛府・大舎人寮(おおとねりりょう)から天皇・中宮(ちゅうぐう)・春宮(とうぐう)に献上された。ヒイラギ、ナツメ、桃、椿、梅などの木を五尺三寸に切ったもので、正倉院には椿で作った卯杖の実物が残されている。日本の年木(正月の神聖な火を焚くための薪)と、中国の剛卯杖(正月に桃の木でもって杖を作る行事)が混ざってできた行事と考えられている。
十五日粥(じゅうごにちがゆ)(七種粥(ななくさがゆ)) 十五日
* 「もちがゆ」ともいう。「もち」は「望」で、十五日は満月(望月(もちづき))であるところからいう。『延喜式』に、「正月十五日供御七種粥料」とあり、米の他、粟(あわ)、黍(きび)、胡麻(ごま)、小豆(あづき)などの穀物の名が列挙される。それらを入れた粥を食すると一年の邪気を払うとされた。『宇多天皇記』寛平二年(八九〇)二月条によれば、他のいくつかの歳事と共に、民間の行事を宮中の歳事として取り入れるようにとの宇多天皇の指示があったとする。とりわけ小豆の色が鮮やかで印象的であるからだろうか、「七種粥」を「小豆粥(あづきがゆ)」ともいったが、この日、役人たちには小豆のみの粥が支給された。紀貫之の『土左日記』に、正月十五日なのに船中なので小豆粥が食せない、というくだりがある。

なお、その粥を炊いた薪の燃え残り「粥杖(かゆづえ)」で女性の尻をたたくと子宝に恵まれるとか、男の尻をたたけばその人の子を宿すなどと言って、宮廷女房の間ではこの日、粥杖をもってお互いに叩き回る行事となって流行し、多くの文学作品に登場する。

七種粥(ななくさがゆ)と七草粥

* 七種粥は正月十五日の行事であり、小豆粥もそれを起源とするが、七草粥はまったく別個のものである。これは正月七日の「供若菜(わかなをくうず)」という行事に由来する。中国渡来のもので、元日から八日まで鶏、狗、羊、猪、牛、馬、人、穀をそれぞれ当て、七日を「人日(じんじつ)」とし、人日の行事として行うものである。この日、若菜を羹(あつもの)(熱い汁物)にして食すと邪気を払うとされ、醍醐天皇の頃にはすでに宮廷行事となっており、貴族、女房達の間にもさかんに行われた。『枕草子』等の王朝文学にも多く登場する。子の日の若菜摘みとも別個の行事である。若菜の種類は一定しないが、『河海抄』に「せりなづなごぎょうはこべらほとけのざすずなすずしろこれぞ七種(くさ)」とあり、この七種類が有名である。室町時代以降、粥に入れられ、「七草粥」とよばれて現在に至っている。
踏歌節会(とうかのせちえ) 十四日〜十六日
* 踏歌を奏する行事。踏歌は、多人数で足を踏みならして拍子をとって歌うもの。男踏歌(おとことうか)と女踏歌(おんなとうか)に分かれ、男踏歌は正月十四日に、女踏歌は十六日に行われる。中国から渡来した風習であるが、日本古来の歌垣(うたがき)(男女が集まって歌い舞うこと)と結びついたものと考えられている。正月にあたり、満月前後の夜に大地の精霊を鎮めるもので、聖武天皇の頃には宮廷行事として行われていた。歌曲の終わりに「万年阿良礼」と称するので「阿良礼走(あらればしり)」ともいう。『西宮記』等によれば、十四日の男踏歌は清涼殿(せいりょうでん)に天皇が出御し、舞人・歌人が楽を奏しつつ東庭に列立し、踏歌を行い、御前で祝詞(のりと)を奏上する。その後内侍(ないし)が歌人に綿を被(かづ)け、歌人は催馬楽(さいばら)の「竹河」という曲を歌う。それがすむと舞人・歌人は市中に出、京の各所で踏歌を行い、諸所に設けられた「水駅(みずうまや)」で飲食をして休息をとった。そして明け方に再び宮中に戻り、酒饌を賜り、管絃が行われて天皇より禄(ろく)を賜った。『源氏物語』「初音」の巻に、「今年は男踏歌あり。内裏(だいり)より朱雀院(すざくいん)に参りて、次にこの院に参る。道の程遠くて、夜明け方になりにけり」とある。

十六日の女踏歌は数十人の舞妓が紫宸殿(ししんでん)の南庭で踏歌をする。これは宮中にのみ行われるもので、市中へは出ず、したがって「水駅」も設けられない。男踏歌は平安中期、円融天皇の時代に絶えてしまったので、以降、「踏歌」といえば女踏歌をさすことになった。

現在では正月十一日、熱田神宮で「踏歌神事」が行われている。

射礼(じゃらい) 十四日〜十六日
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上賀茂神社「武射神事」
宮中の建礼門前で行われた弓術の行事。親王以下、五位以上の者、並びに六衛府(左右の近衛府(このえふ)、衛門府(えもんふ)、兵衛府(ひょうえふ))の官人などが弓を射る。前もって射手を左右に分けて競争させる手結(てつがい)(手番とも。予行演習のこと)が行われた。当日は天皇が豊楽院(ぶらくいん)に出御することもあり、その時は上手の者に禄(ほうびの品)を賜い、宴が開かれた。この日に参加できなかったり遅参した六衛府の官人が、翌日に改めて射る儀式を「射遺(いのこし)」といい、つづいて弓場において、賭物を出して弓の勝負を争う賭弓(のりゆみ)が行われた。



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