延暦十三年(七九四)十月二十二日、桓武天皇は十年間住んだ長岡京を捨て、山背国葛野郡(やましろのくにかどのぐん)・愛宕郡(おたぎぐん)に造営中の新しい都に車駕を進めた。同月二十八日には「葛野の大宮の地は山川も麗しく、四方の国の百姓の参り出で来ん事も便にして、云々」という遷都(せんと)の詔(みことのり)が発布された。平安京の誕生である。
かつての平城京の時代は、「青丹(あおに)よし奈良の都」と謳われた栄華とは裏腹に、政権の内部では血で血を洗う権力抗争が繰り返されていた。桓武天皇自身が皇位を射止めることができたのも、義母の皇后・井上内親王とその子の皇太子・他戸親王を失脚させるという謀計あってのことだったのである。長岡京に遷ってからもそうした犠牲は後を絶たなかった。天皇の寵臣であった造長岡宮使・藤原種継は闇夜の工事現場で暗殺され、その犯罪の責任を問われる形で天皇の実弟である皇太弟・早良親王が無惨な死に追いやられた。その後、天皇の周囲には早良親王の怨霊の影が色濃くまとわりつくことになる。
桓武天皇はおそらく、長岡京を捨てて新しい都を造ることによって、こうした暗い影を一掃することを狙ったのであろう。この新しい都は、「平安京」と名づけられた。それまでの都の名称は全てその場所の地名を採っていた(たとえば、山背国乙訓郡(おとくにぐん)長岡村に造られたから「長岡京」と呼ばれた)。それに比べると、「平安京」という名称には桓武天皇の深い想いがこめられているといわなければならない。天皇のみならず万民にとって、平安京は永遠の平和を願う都であるという願いが込められていたのである。
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