さあ、いよいよ東寺に着いた。九条大路と大宮大路の交差点の西北側には、堂々とした築地塀(ついじべい)がめぐらされ、その向こうには有名な五重塔が都を睥睨(へいげい)している。桓武天皇は平安京造営にあたって、京内に寺院を設置しないという原則を立てていた。平城京の時代には京内に大寺院が建ち並び、そうした仏教勢力が政治に関与するのが常例になっていたから、平安京ではその轍(てつ)を踏まないことを考えたのであろう。しかし、その例外となったのが平安京の南端に新造されたふたつの国立寺院、つまり東寺(とうじ)と西寺(さいじ)であった。
東寺は、正式の名称を教王護国寺(きょうおうごこくじ)という。この名でわかるように、もともとの東寺は国家鎮護を祈願することを主目的として建てられた寺院だったのである。しかしその後、弘仁十四年(八二三)になって嵯峨天皇は空海(弘法大師)にこの寺を下賜し、真言密教の根本道場としたのである。これ以降の東寺は、まさに都の弘法大師信仰と共に歩んだといってよい。
東寺南大門は桃山時代の建築で 三十三間堂から移築された
ただ、現在の東寺には創建当初の建造物はまったく残されていない。永い歴史をたどる中で、東寺は何度も焼亡と再建を繰り返してきたのである。平安時代の建築様式の面影をとどめる建物といえば、わずかに境内東端にある小さな宝蔵を数えるだけになっている。現在の北大門や東大門は鎌倉時代、講堂は室町時代、金堂は桃山時代、そして有名な五重塔は江戸時代前期の再建なのである。このように建物は何度も再建されてきたのであるが、重要なのは、境内の敷地や建物配置のおおもとは平安時代のものを踏襲しているということである。つまり、私たちは東寺を訪れることによって、平安時代の大寺院の面影(おもかげ)を偲(しの)ぶことができるということになるのである。
ひと月に一回だけ、東寺の境内が群衆でごった返す日がある。毎月二一日に「弘法さん」と呼ばれる市(いち)がたつのである。この店は古道具屋さん、こちらは古着屋さん、そこは植木屋さんだ。人だかりがしていると思ったら、その真ん中では大道芸人のおじさんが自慢の芸を披露している。食べ物の露店(ろてん)もいっぱい出ているから、腹ごしらえにも不自由はしない。人混みに揉まれながら散策していると、心はいつのまにか、古代・中世の市の中にタイム・スリップしていくだろう。
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