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市での出会い

市は、物資の交換取引が行われる場所であり、平城京・平安京にはそれぞれ官営の東西市があった。東西の市は、月の前半と後半に分けて交替で正午に開けるように定められ、閉めるのは日没で、その合図には太鼓を三度鳴らした。

大和の海石榴市(つばいち)(椿市)などは古来より有名な市であって、『源氏物語』には筑紫から上京した玉鬘一行と夕顔の女房右近との再会の場を、この椿市として描いている(「玉鬘」)。このように古来より市は、単なる交易の場という機能を持つだけではなく、遠近距離より人が集まるという性質上、会集の機能を持っていた。

『常陸国風土記』「久慈の郡」には、高市(たけいち)というところに方々から男女が会集し、休遊飲楽したと記されている。また『大和物語』には、身分の高い人達も市に出かけて色好みをしたという話が描かれていて、平貞文は市で藤原温子の女房(にょうぼう)達と出会い、恋文を送り熱心に言い寄る恋物語が描かれている。このように、市は、旅行く人との出会いではなく、道行く人との男女の交歓の場として古代の歌垣(うたがき)の名残を残している。

稲荷旅所を見物する
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稲荷旅所

東市からさらに大宮大路を南下しよう。梅小路との交差点から少し東に入ると、南側に広い空閑地があり、その中央に小さな祠(ほこら)が建っているのが見えるだろう。伏見の稲荷社の御旅所である。

伝説によると、ここは弘法大師空海に霊告を与えた「柴守長者(しばもりちょうじゃ)」という霊人の邸宅の所在地だった。その後、柴守長者は稲荷山に入り、王城鎮護、仏法守護の神となったといわれている。もちろんこれをそのまま史実と受け取ることはできないけれども、空海の開いた東寺と伏見稲荷社は古くから密接な関係を持っていたことは事実である。

伏見稲荷社は現在でも、東寺を含む七条・八条附近を氏子圏としている。そして、毎年四月の稲荷祭の際には、伏見稲荷社を出発した神輿(みこし)がこの旅所に入って留り、五月三日に再び氏子圏を巡幸しながら東寺に立ち寄り、本社に帰ってゆく。


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弘法大師信仰の東寺
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さあ、いよいよ東寺に着いた。九条大路と大宮大路の交差点の西北側には、堂々とした築地塀(ついじべい)がめぐらされ、その向こうには有名な五重塔が都を睥睨(へいげい)している。桓武天皇は平安京造営にあたって、京内に寺院を設置しないという原則を立てていた。平城京の時代には京内に大寺院が建ち並び、そうした仏教勢力が政治に関与するのが常例になっていたから、平安京ではその轍(てつ)を踏まないことを考えたのであろう。しかし、その例外となったのが平安京の南端に新造されたふたつの国立寺院、つまり東寺(とうじ)と西寺(さいじ)であった。

東寺は、正式の名称を教王護国寺(きょうおうごこくじ)という。この名でわかるように、もともとの東寺は国家鎮護を祈願することを主目的として建てられた寺院だったのである。しかしその後、弘仁十四年(八二三)になって嵯峨天皇は空海(弘法大師)にこの寺を下賜し、真言密教の根本道場としたのである。これ以降の東寺は、まさに都の弘法大師信仰と共に歩んだといってよい。

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東寺南大門は桃山時代の建築で
三十三間堂から移築された

ただ、現在の東寺には創建当初の建造物はまったく残されていない。永い歴史をたどる中で、東寺は何度も焼亡と再建を繰り返してきたのである。平安時代の建築様式の面影をとどめる建物といえば、わずかに境内東端にある小さな宝蔵を数えるだけになっている。現在の北大門や東大門は鎌倉時代、講堂は室町時代、金堂は桃山時代、そして有名な五重塔は江戸時代前期の再建なのである。このように建物は何度も再建されてきたのであるが、重要なのは、境内の敷地や建物配置のおおもとは平安時代のものを踏襲しているということである。つまり、私たちは東寺を訪れることによって、平安時代の大寺院の面影(おもかげ)を偲(しの)ぶことができるということになるのである。

ひと月に一回だけ、東寺の境内が群衆でごった返す日がある。毎月二一日に「弘法さん」と呼ばれる市(いち)がたつのである。この店は古道具屋さん、こちらは古着屋さん、そこは植木屋さんだ。人だかりがしていると思ったら、その真ん中では大道芸人のおじさんが自慢の芸を披露している。食べ物の露店(ろてん)もいっぱい出ているから、腹ごしらえにも不自由はしない。人混みに揉まれながら散策していると、心はいつのまにか、古代・中世の市の中にタイム・スリップしていくだろう。

御影堂(みえどう)のある西院(さいいん)

東寺の境内の西北角に、西院と呼ばれていた一角がある。弘法大師空海の住房の跡であると伝えられており、空海の示寂(じじゃく)の後にはここに大師堂(だいしどう)(御影堂)が建てられた。現在の建物は南北朝時代に再建されたものであり、堂内には鎌倉時代の弘法大師像と平安時代の不動明王坐像(ふどうみょうおうざぞう)を安置している。大師堂は今も弘法大師信仰の中心地であり、堂の前はいつも多数の信者たちで賑わっている。

東寺(とうじ)から羅城門跡(らじょうもんあと)へ
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東寺、南大門と五重塔
東寺にお詣(まい)りしたのであるから、ちょっと足を伸ばして西寺まで出かけることにしよう。東寺の南大門(なんだいもん)を過ぎ、九条大路をまっすぐに西に向かう。ここは平安京の南端であり、道路の左側には京外の田園風景が広がっている。中国の都城であるならばここに大規模な城壁が立ちはだかるところであるが、異民族の侵入の心配がない平安京では、わずかな濠(ほり)と土塁(どるい)で区切られるだけである。

ほどなく、平安京の正門である羅城門へと行き着く。北側には幅二八丈(約八四m)という広大な道幅を持つ朱雀大路(すざくおおじ)が一直線に延びている。羅城門は正面七間、奥行二間、重層入母屋(いりもや)屋根の壮麗な門である。門の幅は一一九尺(約三五・七m)、高さは七〇尺(約二一m)ほどであったと推定されている。屋根の軒には緑釉瓦(りょくゆうかわら)が照り映え、鬼瓦(おにがわら)にいたっては三彩(さんさい)の釉(うわぐすり)をかけるという豪華さであった。門の二階には、中国・唐から伝来した兜跋毘沙門天(とばつびしゃもんてん)の立像が安置され、都を守護している。

羅城門は、単に都の威儀を整えるというだけではなかった。もちろん外敵への防御には役立たないけれども、外国からの使節が来た時などはこの門の前で祓の儀式がおこなわれた。つまり、外から侵入しようとする悪い神から都を守るための儀式である。羅城門こそは、聖なる都・平安京のシンボルだったのである。

荒廃して久しい羅城門(らじょうもん)
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東寺、南大門と五重塔
都の正面玄関を飾る羅城門ではあったが、王朝文化の時代にはすでにその姿を消していた。そもそもこの門は、高さと幅に比して奥行が狭すぎ、建築的にはいささか不安定だったのである。弘仁七年(八一六)と天元三年(九八〇)の二度にわたって羅城門は暴風雨のために倒壊しているのである。そして、天元年間に倒れてからは、再びこの門が再建されることはなかった。『今昔物語集』には、荒れ果てた羅城門の楼上が庶民の死体の捨て場となっている凄惨(せいさん)な状況が描写されているが、これは弘仁年間に再建された第二次の羅城門の姿であろう。治安三年(一〇二三)、藤原道長は自ら造営した法成寺の工事に使うために、羅城門跡から礎石(そせき)を奪い取っている。

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西寺の金堂跡には後世の高い土盛りがされている
官寺化した西寺(さいじ)

東寺と並ぶ平安京内のもうひとつの国立寺院、それが西寺である。むしろ、空海に与えられた東寺と違って、西寺は最後まで国家が直轄する寺院としての性格を失わなかった。たとえば、前代の天皇や皇后の忌日である国忌(こき)の際には、西寺で修法がおこなわれることが多かったのである。ただ、西寺は東寺のように庶民の信仰に依拠しているわけではなかったため、その分衰亡するのも早かった。つまり、官寺的な性格が強かっただけに、律令国家体制が緩んでくると共に西寺もそれと運命を共にすることになったのである。

西寺の初代の住職となったのが守敏僧都である。ただ、この僧については実像がよくわからない。弘法大師伝説の中では彼は空海の敵役とされており、たとえば神泉苑(しんせんえん)で請雨(しょうう)の修法(しゅほう)をおこなった際、守敏は姑息(こそく)な手を使って空海を破ろうとし、逆に空海の法力によって打ち負かされるということになっている。このあたりにも、弘法大師を贔屓(ひいき)にする庶民の信仰の力があらわされているとみてよいであろう。

矢取(やとり)地蔵の伝説

羅城門(らじょうもん)の跡は現在では小さな児童公園となっており、そこに「羅城門址」と記した大きな石碑(せきひ)がポツンと立っているだけである。小さな発掘調査はおこなわれているが、未だに羅城門そのものの遺構は発見されていない。

公園の南側には小さな地蔵堂があり、付近から出土したたくさんの石仏や一石五輪塔が安置されている。このあたりは中世・近世には「四塚(よつづか)」という庶民の共同墓地となっていたのである。

地蔵堂の本尊は石造の地蔵菩薩で、「矢取地蔵」と呼ばれている。江戸時代の地誌には、西寺の守敏僧都が弘法大師の徳を妬み、油断をみすまして矢を射かけた。しかしこの地蔵菩薩が大師の身代りになってその危難を救った、という話が書かれている。これもまた、空海をヒーローとし、守敏を悪役とする庶民信仰が生み出した伝説なのである。


藤原道長が紫式部の局を訪れる。『紫式部日記』

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