平安京とその周辺では道路が比較的整備されていたから、上皇をはじめ大臣以下の公卿、さらには四位・五位の殿上人(てんじょうびと)、それにその子女や仕える女房(にょうぼう)まで、一般の交通手段としては牛車を用いた(天皇は牛車には乗らない)。
牛車は、牛に引かせた二輪車で、人が乗る車体(「箱」という)の基部から前方へ二本の轅(ながえ)を伸ばし、その先につけられた軛(くびき)を牛の首に懸(か)けて引かせるのである。車体は前後が開いていて、ふつうは後ろから乗り、前へ降りる。前後の出入り口には、御簾(みす)を懸け、その内側に布製の下簾(したすだれ)を垂らして、裾を御簾の下から外に出す。
車体の材質によって「糸毛車(いとげくるま)」や「網代車(あじろくるま)」といった名称や、「八葉車(はちようくるま)」などのように描かれた模様による名称もある。いずれも、身分や格式によって使い分けられた。また、車体の両側に窓のついたものもあり、これを「物見車(ものみぐるま)」という。これにさらに蔀がつけば「半蔀車(はじとみぐるま)」、廂がつけば「廂車(ひさしぐるま)」となる。
車をふだん格納して置く施設が車宿(くるまやどり)で、使用するときはここから車を引き出して、車寄(くるまよせ)から乗車する。車寄は中門廊の途中あり、屋根を伸ばして廂(ひさし)を深くして車を入れやすくした場所で、妻戸(つまど)を開けて乗車できるようになっている。
参内する場合、ふつうは宮城門の待賢門(たいけんもん)か上東門(じょうとうもん)で下車するので、これらの門脇には貴族の牛車が立ち並ぶ光景が見られた。功労のあった大臣などは特別に牛車で待賢門を通って宮中に出入りすることが許された。これを「牛車(ぎっしゃ)の宣旨(せんじ)」という。
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