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清水詣
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牛車で清水詣へ出かけよう

清水詣


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六條院から北へ五条大路へ出る

六條院は、南と北には入口がないので、東門か西門のいずれかから道に出ることになる。ここではモデルとされる源融の河原院を想定して、西へ万里小路(までのこうじ)の方へ出て道を北にとる。

牛車は後ろ向きに対屋(たいのや)まで引き入れて、直接縁から乗り込む。同僚の女房、お供の女童を含めて四人が乗れる。中門をくぐると北へ車を進める。私的な物詣でなので前駆(ぜんく)や車副(くるまぞえ)はいない。牛飼童(うしかいわらわ)は院がふだんから使うこころやすい者である。

木の車輪のきしむ音、窓から入る春風、いずれものどかな小旅行の予感を感じさせる。五条大路へ出ると、針路を東へ変える。正面には、緑も鮮やかな東山が望める。

五条橋を渡る

ほどなく東京極大路(ひがしのきょうごくおおじ)を過ぎると、ここからは京外である。鴨川には少なくとも平安末期には橋が架かっていた。清水寺への参詣路であったので、その便のために架けられたのである。勧進聖(かんじんひじり)が広く人々から喜捨を集めて架橋したので、勧進橋ともよばれた。『梁塵秘抄』に収められた今様(当時の流行歌)には、「何れか清水へ参る道、京極くだりに五条まで、石橋よ」と詠まれているから、橋脚は石造りの堅牢なものである。橋の上からは、鮎を捕る漁師や水浴びする子どもたちの姿が見える。

平安京の五条大路は現在の松原通
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現在の松原橋
現在の五条通は、平安時代の六条坊門小路に該当する。それより二町北を東西に走る松原通が平安時代の五条大路の位置になる。

時代がくだり、豊臣秀吉は東山七条辺に方広寺大仏を建立したが、その参詣の便宜のために、鴨川の現在の五条大橋にあたる位置に石橋を架けた。これが五条石橋である。そのために六条坊門小路を五条石橋通またはたんに石橋通というようになり、さらには五条通とよぶようになったのである。

牛若丸と弁慶が出会った橋も現在の五条大橋ではなく、ひとつ上流に架かる松原橋の位置になる。

車中より六波羅蜜寺(ろくはらみつじ)を拝む
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六波羅蜜寺
鴨川を渡って大和大路を過ぎれば、清水坂の入口である。車の右手の窓から寄棟造(よせむねづくり)のりっぱな瓦屋根の堂が見えてくる。六波羅蜜寺である。諸国を遊行して架橋などの社会事業を行いながら、人々に念仏を勧めたために「市聖」とよばれた空也が創建した西光寺を基礎に、貞元二年(九七七)、中信が天台宗の別院として建立した寺院である。

堂の額字は三蹟のひとりで名筆家の藤原佐理が揮毫したもの。もともと観音が祀られていたが、のち仏師定朝が彫った地蔵菩薩像も安置され、いまはそちらのほうでも有名である。今日は寄らないで、車中から拝むことにする。

六道(ろくどう)の辻(つじ)を通る
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六道珍皇寺
しばらく坂を進むと、今度は左手に寺院の門を見る。これが珍皇寺(ちんこうじ)で、その向い側へとつづく道は京都の葬送地として知られた鳥部野(とりべの)へとつづいている。つまり珍皇寺は鳥部野への入口としての性格をもった寺で、そのためにこの門前は六道の辻とよばれた。  

平安前期の公卿小野篁(おののたかむら)が、閻魔(えんま)庁の冥官としてこの場所から現世と冥界の間を行き来したという伝説があるのも、そうしたこの寺の性格と無関係ではない。境内の篁堂には小野篁像・弘法大師像・閻魔大王像などが祀られている。この場所を通るときは、いつも恐ろしさと気味悪さに身震いがする。急いで通り過ぎよう。

清水坂(きよみずざか)を登る

六道辻(ろくどうのつじ)を過ぎると道は急勾配(きゅうこうばい)の坂になる。牛車を引く牛のあえぐ声と、それを駆り立てる牛飼童の叱る声が車中にも聞こえる。清水坂のこの周辺には、運輸業者である車借(しゃしゃく)が居住したり、坂非人といわれた病気の人々が組織的に集住している。そうした病人に湯を施して治療するための「温室(おんしつ)」という蒸し風呂の施設もある。室町時代には「つる召(め)そ」と呼ばわりながら、京都市中に弓の弦(つる)を売って歩いた犬神人(いぬじにん)の居住地でもあった。彼らは祇園祭(ぎおんまつり)の山鉾を護衛する役割をもっていた。

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経書堂
経書堂(きょうかくどう)で経文を書く
清水坂の途中、左手からの急な石段の上り坂と出会う辻になる。この坂が三年坂(産寧坂)で、下ると法観寺八坂塔に至る。右手に見えるのは泰産寺の子安塔(こやすのとう)で、安産の観音を祀っている。

この三年坂との辻の、北東角にある小堂を経書堂(正式な寺名は来迎院)という。ここに立ち寄って経木を召し寄せ、法華経の一句を書いて、亡き人の回向をすることにする。経書堂の由来としては、法華経の一字一字を一石づつに書いて供養したからだという説もある。

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三年坂
三年坂(さんねんざか)
経書堂(きょうかくどう)の下から法観寺を経て祇園(ぎおん)に至る坂で、石畳み道と古い家並みがつづく情緒から、現在でも観光コースになっている。坂の名の由来は、大同三年(八〇八)に開けた道だからとも、泰産寺への参詣路であることから「産寧坂」といい、その転訛から「三年坂」というようになったともいう。この坂で転ぶと三年のうちに死ぬという俗説がいつのころからかある。



子安塔(こやすのとう)
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子安塔
正式な寺名は泰産寺。養老年間に光明皇后によって創建されたという伝承をもつ。安産の観音として京都の人々の崇敬を受け、帯を掛けて安産を祈ったので「子安観音」の名がある。江戸時代までは三年坂(産寧坂)の上にあったが、明治になってから現在の、奥の院の先に移された。現在の三重塔(子安塔)は江戸時代の建立である。

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