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鞍馬までの道中
輿の種類
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輿で鞍馬へ出かけよう

鞍馬までの道中


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河原町御池から西南方向を眺めた京都市街
平安京の小路(こうじ)から大路(おおじ)へと進む

輿は平安京の大路小路を北に進むことになる。平安京は、整然とした碁盤の目状の街路によって区切られた計画都市であった。東西・南北の道路によって区切られた一辺四〇丈(約一二〇m)の正方形の区画を「町(ちょう)」と呼び、これが宅地の基本的な単位となっていた。道路には大路と小路の区別があり、小路は幅四丈(約一二m)に統一されていた。大路は、大部分は幅八丈(約二四m)であったが、重要なものは幅一〇丈、一二丈のものもあり、二条大路や朱雀大路(すざくおおじ)にいたっては一七丈(約五一m)、二八丈(約八四m)というとてつもない規模をもっていた。

ただし、平安京の街路は基本的には地道のままであり、石敷などの舗装をほどこした部分はほとんどなかった。雨が少し余計に降ると、たちまち道はぬかるみになった。平安京跡で発掘される道路の遺構には、何十本もの牛車の轍(わだち)の跡が刻みこまれているものがある。雨の後のひどいぬかるみの中を、牛があえぎあえぎ車を引っ張っていった様子が目に浮かぶ。

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道路と築地(模式図)
町堂に立ち寄り参拝する

東洞院大路を北へ上ると左手に瓦屋根の仏堂が見えてきた。因幡堂である。ここには霊験あらたかな薬師仏が祀られている。少し立ち寄り健康を祈願することにしよう。

平安京の中には、寺院を造らないことが原則とされていた。仏教勢力が政治に口を出すことを嫌った桓武天皇が、東寺と西寺というふたつの国立寺院を例外として、京内に寺院を建てることを許さなかったのである。そして、この原則は平安時代を通じて一応は守られていたのである。ところが、これには抜け道があった。堂塔伽藍(どうとうがらん)を備えた大寺院はともかく、街の交差点に建てられた辻堂(つじどう)や、貴族の邸内に設けられた持仏堂(じぶつどう)などは規制の対象外であった。そして、それらの町堂が庶民の信仰を集め、次第にきちんとした寺院に発展していくということもしばしば見られたのである。因幡堂(いなばどう)や六角堂(ろっかくどう)は、そうした町堂の代表格だということができよう。

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因幡堂と愛犬ジョリー
因幡堂(いなばどう)

下京区烏丸通松原上ル因幡堂町に所在する。正式には福聚山平等寺というが、それよりも「因幡堂」「因幡薬師」の通称で知られている。寺伝では、長保五年(一〇〇三)に因幡守橘行平が自邸内に薬師如来(やくしにょらい)を祀ったことに始まるとされている。

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六角堂
六角堂(ろっかくどう)

中京区六角通烏丸東入ル堂之前町にあり、正式名称を紫雲山頂法寺という。寺伝では聖徳太子が建立したと言われているが、これは確実な史料では証明することができない。むしろ、平安時代中期の頃に創建された町堂に由来すると考えておくのが良いと思う。

二条大路は高級住宅街
* さらに東洞院大路を北へ行くと大きな道との辻へ出た。二条大路である。

平安京の南北のメイン・ストリートが朱雀大路(すざくおおじ)ならば、東西のそれは二条大路であろう。平安宮(大内裏)の前面を横切る道路として、道幅一七丈(約五一m)の偉容を誇っていた。そうした広大な道にふさわしく、二条大路の南北両側には最高級の貴族の邸宅が林立していた。

二条大路と大宮大路の交差点を起点にして西から見ると、北側には嵯峨上皇が創建した冷然院(後には冷泉院と改称)、陽成上皇の御所であった陽成院、関白藤原道兼の本邸である町尻殿(二条殿)、摂政藤原道長の小二条殿(二条殿)などが、また南側には堀河天皇以降の里内裏(さとだいり)となった堀河院、平安時代末期から鎌倉時代にかけて永く内裏として使われ続けた閑院(かんいん)、藤原摂関家の本邸としてそのシンボル的存在であった東三条院、一条天皇中宮・藤原定子の里第である二条宮、関白藤原教通の山吹殿(小二条殿とも呼ばれたが、道長の小二条殿とは別)といった大邸宅が立ち並んでいたのである。

左京の真ん中にあたるこの地は、まさに平安京の中枢ともいえる高級住宅街だったのである。

高級住宅の建ち並ぶ界隈を輿は西へと進んでいく。

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神泉苑
現在の神泉苑しんせんえん

二条城の南側に残るささやかな池、それが現在の神泉苑である。平安時代には広大な規模を誇った神泉苑も、鎌倉時代以降には次第に荒廃し、敷地を削られていった。現在は往時の三〇分の一程度の面積にまで縮小してしまい、古義真言宗東寺派に属する寺院となっている。地下鉄東西線が建設された際の発掘調査では苑池の汀線などが検出され、かつての神泉苑の一部が甦った。

神泉苑は龍(りゅう)が棲(す)む

二条大路を西へたどると、大宮大路との交差点の南西側に鬱蒼(うっそう)とした森がみえる。桓武天皇が平安宮に付属する苑池として造営した神泉苑である。これは、遷都以前からこの場所に存在していた自然の池を改造し、そこに面して壮麗な殿舎を建てたもので、敷地は東西八四丈(約二五一m)、南北一七二丈(約五一三m)という広大な範囲を占めていた。桓武天皇はこの離宮をことのほか気に入っており、晩年の十六年間に二十七回もの行幸を繰り返している。当初は天皇専用の禁苑であり、狩猟、詩宴、観花、観魚などの華やかな宴会がしばしばおこなわれたのである。

平安京の真ん中で清冷な水がこんこんと湧き出る神泉苑は、いつしか龍王の住処であると信じられるようになった。そうした信仰が盛んになるに従って、神泉苑は祈雨(きう)や止雨(しう)などの儀式の場に姿を変えていく。中でも著名なのは天長元年(八二四)にここでおこなわれた雨乞いの儀式であり、それは東寺の空海(弘法大師)と西寺の守敏(しゅびん)僧都の法力比べの場となったと伝えられている。

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祇園祭(船鉾)
御霊会(ごりょうえ)とは

平安時代は、怨霊(おんりょう)とともに始まった。桓武天皇の同母弟であった早良親王は、造長岡宮使・藤原種継の暗殺事件の責任を問われて非業(ひごう)の死を遂げた。長岡京がわずか十年で廃都に追い込まれた理由のひとつは、明らかにこの早良親王(崇道天皇と追尊)の怨霊の祟りが信じられたことにあった。

やがて、政争に敗れて憤死した人々の怨霊を神として祀り、その怒りをなだめる儀式がおこなわれるようになった。これが御霊会である。

当初の御霊会は神泉苑において実施されたが、後には常設の神社が創建されるにいたる。上御霊・下御霊両神社がそれである。

現在京都の夏を彩る祇園祭も、もとは「祇園御霊会」といわれ、同じ御霊会から出発している。当初は神輿を中心とする祭礼で、京中の旅所へ赴く祭列が華やかであったが、室町時代になるとこれを奉賛する山鉾巡行が盛んになった。これが現在の祇園祭である。


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