◆一条大路は賀茂祭(かもまつり)の見物場所
修理職町(すりしきのまち)を横目に見ながら、西洞院大路(にしのとういんおおじ)を北へと向かう。突き当たりは、平安京の北を限る一条大路である。北辺とはいっても、うら寂しい場末の風景を想像してしまうと間違いになる。一条大宮(左京北辺二坊一町)には一条天皇がこよなく愛した里内裏(さとだいり)である一条院が存在した。この邸宅は、絢爛(けんらん)たる王朝文化の最大の舞台であった。たとえば、紫式部がその日記の中で描いている内裏とは、平安宮内にある本来の内裏(大内(おおうち))ではなく、里内裏としてのこの一条院の姿なのである。
一条大路と西洞院大路の交差点の南東側(左京北辺三坊一町)には、『蜻蛉日記』の著者として知られる藤原道綱母が住んでいた。彼女はもともとこの西側の一条堀川(左京北辺二坊五町)にあった父(藤原倫寧)の家に住んでいたのであるが、夫の藤原兼家が一条西洞院の新邸を用意してくれたのでそちらに移ったのである。しかし、その後は彼女に対する兼家の愛情は次第に薄れていき、その足も遠ざかっていった。道綱母はここで兼家を待ち続けたが、その期待がしばしば裏切られたことは『蜻蛉日記』からよく知られるところである。
一条大路はたびたび華やかな祭礼の舞台となり、人々でごったがえすことになった。特に、一条大路が京都最古の神社である賀茂社(賀茂別雷神社(かもわけいかずちじんじゃ)〈上賀茂神社(かみがもじんじゃ)〉と賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)〈下鴨神社(しもがもじんじゃ)〉)へのルートとなっていたことは、いやがおうでもこの大路の重要性を高めることになった。賀茂社の例祭は、四月の吉日を選んでおこなわれる賀茂祭(現在の葵祭)と、十一月におこなわれる賀茂臨時祭である。この時には、天皇から遣わされた奉幣使(ほうべいし)を中心とした行列が一大パレードを繰り広げた。一条大路は貴族から庶民にいたる見物人で溢れ、道路の両側には行列を見物するための「桟敷(さじき)」がぎっしりと建てられることになった。一条大路は、儀典都市・平安京に欠かせない巨大な祝祭空間だったのである。
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