◆坊で休憩ののち本堂に詣る
鞍馬寺の虎(寅の日に詣でると効験があるとされた)
かなりの難行であったが、やっとのことで鞍馬寺の伽藍(がらん)へとたどりついた。現在山上に立ち並ぶ建物はほとんどが一九五〇年代後半から七〇年代前半にかけて再建されたものであり、平安時代の伽藍配置はよくわからない。ただ、急峻な山の斜面を何段にも切り開き、そこにさまざまな御堂(みどう)や坊舎(ぼうしゃ)が配されていたことを想像することは可能であろう。平安時代にも、鞍馬寺への参詣者はいずれかの坊舎でひとまず休息をとった後、金堂(こんどう)(本堂)に参拝することになる。
本殿金堂の前の広場南端にある「翔雲台」。 中央にある板石は出土した経塚の蓋石である。
金堂の近くには、後に「転法輪堂」と呼ばれることになる丈六阿弥陀仏を本尊とする御堂が建っていた。平安時代の後期、鞍馬寺の寺運を隆盛に導いた重怡上人(じゅういしょうにん)が常の居所としていたのがこの御堂であった。上人(しょうにん)は五十三歳から亡くなる直前の六十六歳までの十三年間(大治二年〈一一二七〉?保延六年〈一一四〇〉)にわたって、くる日もくる日も念仏を唱え続け、その回数は実に十二万遍にも及んだといわれている。鞍馬寺の伽藍の前に立って耳を澄ませてみよう。どこからともなく、上人のつぶやく念仏の低い響きが聞こえてくるような気がしないであろうか。
現在の鞍馬寺
鞍馬寺でもうひとつ重要なのは、伽藍の裏山に多数の経塚(きょうづか)が営まれていることである。経塚とは、仏法が衰退する末法の世にあって、弥勒菩薩(みろくぼさつ)が出現するはるかな未来まで正統の経典を伝えるため、金属や土器で作った容器に経を入れて土中に埋納したものである。
鞍馬寺経塚は質量ともにわが国の経塚の代表格ともいえるもので、そこの出土品のほとんどは国宝に指定されている。
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