正殿前の階段のたもとでは、左少将(さしょうしょう)が先ほど鵜飼の鵜に捕らせた池の魚を、右少将(うしょうしょう)が蔵人所(くろうどどころ)の鷹飼(たかがい)の北野で狩りした鳥一番(ひとづがい)を、それぞれ左右から膝をついて献上しています。
帝の仰せを受けて、太政大臣(だじょうだいじん)がそれらの獲物を調理に回すよう命じられると、やがて今日の御膳の料理として皆の前に披露されました。
みながちょうどほろ酔い気分の夕方になった頃、楽所の楽人を召して音楽がはじまります。公卿(くぎょう)の子供たちがちょっとした舞を順番に舞います。
なかでも太政大臣の一番末の十歳ばかりになる男の子が「賀皇恩(がおうおん)」という舞楽をたいへん上手に舞いました。
帝はご褒美に着ていた衣を脱いでお与えになります。太政大臣は恐縮して寝殿を降りられ、庭上でお礼の拝舞を舞われました。
源氏の君はというと、朱雀院の紅葉の賀で当時頭中将だった太政大臣と二人で「青海波(せいがいは)」を舞った時のことを懐かしく思い出されたのでしょう、折から庭に咲いていた菊を折らせになり、大臣に次のような和歌を詠みかけられました。
色まさる籬(まがき)の菊もをりをりに袖うちかけし秋を恋ふらし
(ひとしお美しい籬の菊も、袖を重ねるようにして相舞したむかしの秋を恋しく思っているでしょうね)
大臣も、その当時のことを懐かしく思い出されたようです。
それにつけても、若い二人が競って舞ったあの当時はともに評判をとったものです。
でも、やっぱりこの源氏の君には適わなかった、そんなことを太政大臣は思っておられる御様子です。
大臣の心を見透かしたのでしょうか、それとも天も時宜というものを心得るのでしょうか、この光源氏の君の栄華を極めた晴れの舞台を祝福するかのような時雨(しぐれ)が、さっと通り過ぎました。
太政大臣の御返歌は次のようなものでした。
紫の雲にまがへる菊の花濁りなき世の星かとぞ見る
(紫色の雲と間違えるような菊の花は、濁りのない聖代の星のようです)
日が暮れてくると、夕風に錦の渡殿かと見まがうばかり庭一面に吹き敷かれた紅葉の、濃いのや薄いのが、なおいっそう鮮やかさを増してきます。その紅葉の上で、名家の子どもたちが、青や赤の白橡(つるばみ)色の袍に蘇芳(すほう)や葡萄染(えびぞめ)の下襲(したがさね)の装束もあでやかに、みずらを結い、天冠(てんがん)だけを着て、短い曲をほんの少しばかり舞います。
舞い終わって紅葉の蔭に退出していく姿は、日が暮れるのも惜しまれる風情です。
日がすっかり暮れると、室内には燈台(とうだい)に火が点(とも)され、庭には篝火(かがりび)が焚(た)かれます。
今度は帝や院のお客さまがた、それに主人の源氏の君が、みずから楽器をお召しになり、お供の公卿(くぎょう)のみなさまとご一緒に、音楽の遊びがはじまりました。
笏拍子(しゃくびょうし)や笙(しょう)などの伴奏楽器を演奏する楽人をほんの数人ばかり庭にお召しになります。
御階には唱歌を得意とする殿上人(てんじょうびと)が控えて、演奏にあわせて催馬楽(さいばら)などを歌います。
楽器は宮中の書司(ふみのつかさ)に伝わる名器ばかりで、院も、かつて位にあった時には内裏(だいり)で慣れ親しんだ「宇陀の法師」の和琴の音色を、久しぶりに懐かしくお聞きになっている御様子です。
院は、帝がこれほど源氏の君をたいせつにされ、また源氏御自身もそれを背景に栄華を誇っておられる様子をうらやましく見ておられました。
御簾(みす)の隙間から覗き見すると、琴を弾かれる源氏の君と帝のお顔はほんとうに瓜二つで、やはりうわさどおり実の親子であったのだと改め
て感心いたしました。視線を横に移すとそこには源氏の君のご子息、夕霧中納言がお得意の横笛を吹いておられます。そのお顔がまた光源氏と似ているのは親子であるから当然のこととしても、帝ともそっくりなのは恐れ多いことです。
御身分が違うという意識があるから天皇と夕霧の君の間には優劣があるように拝見しますが、なかなか男ぶりということでは、夕霧の君のほうが勝れているように見える、と感じるのは、わたしだけの偏見でしょうか。
御階で唱歌を得意とする弁少将の歌声が一段と聞こえてきました。この方も太政大臣の御子息であることを思うと、やっぱり源氏の君と太政大臣の両家の血筋は、ともにすぐれた人を輩出するお家柄なのだなあといまさらのように思われました。
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