『紫式部日記絵詞』第三段 藤田美術館蔵
平安時代の牛
牛が登場する初期の文献に『播磨風土記』がある。また『古事記』の仲哀天皇御崩御に関する項目に「馬、牛、鶏、犬」、『日本書紀』にも「牛、馬や黄牛」と、牛の文字が登場する。
家畜としての牛は朝鮮半島から渡来人とともにやってきたようである。天武天皇の「禁の詔」が「涅槃経」に倣(なら)って発せられているが、その頃には、牛乳としても食肉としても既に利用していたと考えられる。農耕に牛が用いられた例としては「田令」に「二町毎に牛一頭を配する」とある。
牛の皮は『延喜式』では祭祀に使われており、正倉院には美しく彩色された牛皮華鬘(ごひけまん)が残っている。
牛車は平安初期『三代実録』貞観十七年九月九日条に初見される。平安京初期の人口は十二万人前後、南北五・二km×東西四・五km、一五%〜二〇%に建物が建っている。空き地があり畑があり、「好んで水田を営む」とある。明治の京都の写真でも随分畑が見られる。現在ビルの屋上から見ると御所以外は建物でいっぱいになっているので俄に信じがたいものがある。花山朝(九八四年〜九八六年)においても「禁内裏、西京、朱雀門、京中の田を刈った」とある。『源氏物語』ー「蓬生」の抄に現在の御所の東側にあると想定される常陸宮邸の様を次のように書いている。「かかるままに、浅茅は、庭の面も見えず、しげき蓬は、軒を、争いて生いのぼる。葎は、西・東の御門を閉じこめたるぞ、たのもしけれど、崩れがちなる垣を、馬、牛などの踏みならしたる、道にて、春・夏になれば、放ち飼ふ総角(あげまき)の心さへぞ、めざましき。」このように、馬や牛が放し飼いにされていた。馬・牛の放し飼いの禁止令が度々出るので確かに放し飼いされていたのであろうし、「飼う」と、言う事は飼い主もいたと言う事になる。
牛の種類については、延慶三年(一三一〇年)の『国牛十図』に、写本によって違いがあるが直麿(ねいのなおまろ)の絵とされる筑紫牛、御厨牛、淡路牛、但馬牛、丹波牛、大和牛、河内牛、遠江牛、越前牛が描かれている。この書物によると、十図の内の越後牛の他、出雲、石見、伊賀や伊勢にもよい牛がいると書かれている。絵巻物の牛には黒、褐、黄、黒地白班のものがあり、『源氏物語絵巻』、『信貴山縁起絵巻』、『紫式部日記絵巻』に見られる。
「葵祭之巻」(竹内家蔵)
牛車には白斑の牛が好まれていたようだ。江戸期の浮世絵にも多くの牛が描かれているが、やはり黒、赤、褐、黄、黒地白斑の牛である。絵巻物や浮世絵を見ると人の腰の辺りに牛の背中があり随分小さい。一方、明治天皇御大喪の図には人の肩より大きい牛が描かれており、この頃には大きな牛が日本にいた事が判る。これは明治以降、在来牛に外国の牛との交雑が勧められたからである。ブラウンスイス種、デボン種、ショートホーン種、エアーシャー種、シンメタール種、デイリーショートホーン種等の肉用牛、乳用牛が入ってきている。しかし、交雑の行き過ぎが反省され、目指すべき牛の生産を図るべく、明治四十四年に方針が変更され、良質な改良和牛が作出される事になった。
詳しくは、岩手県前沢町にある「牛の博物館」のサイトhttp://www.city.oshu.iwate.jp/htm/ushi/を参照。他に『但馬牛物語』兵庫県畜産会編、『新但馬牛物語』新但馬牛物語編集委員会編、『日本古代家畜史』金寿方貞亮著、『都市平安京』西山良平(京都大学学術出版会)を参考。
|