鷹飼は、飼い馴らした鷹(たか)を野に放って鳥や小獣を捕らえさせる、いわゆる「鷹狩(たかがり)」の職掌で、古代から鵜飼と同じく天皇に貢上する贄(にえ)のための猟を行った。本来は中央アジアの遊牧民によってはじめられたもので、日本では仁徳天皇四十三年に、百済の王孫酒君が調教した鷹を百舌鳥野に遣い、雉を得たのがはじまりであるという。これにより鷹甘部(たかかいべ)を設置した。官制では兵部省(ひょうぶしょう)の主鷹司(たかつかさ)で鷹犬の調教が行われ、鷹飼に従事する鷹戸が付属した。のち鷹飼は、民部省(みんぶしょう)に移管されたりしたが、平安時代には蔵人所の管轄となって、もっぱら天皇の私的な鷹狩に従事した。
清涼殿(せいりょうでん)では、天皇が諸国から献上された鷹を見る鷹御覧(たかごらん)があり、その後親王らに鷹が下賜された。また、私的に鷹を飼うことは禁じられていて、特別な者にだけ許された。
猟場は、河内国の交野(かたの)のほか、近江国の栗太郡や伊香郡にもあったが、禁野として一般の狩猟が禁じられている。六條院行幸(ろくじょういんぎょうこう)で献じられた鳥は「北野」で狩られたとあるから、平安京北郊の北野周辺などで狩られることもあったらしい。獲物は、鶴・雁(かり)・白鳥・鴨(かも)・雉(きじ)などの鳥類や、兎(うさぎ)・狐・狸などの小獣である。
正月の大臣大饗では、鷹を手にした鷹飼が、犬を引き連れた犬飼(いぬかい)を伴って庭上に登場し、鳥を献上する慣わしがある。その装束は天皇に供奉して放鷹する狩装束で、帽子を着し、布衣と袴に腹纏(はらまき)をつけ、脚には脛巾(はばき)を巻き、腰に餌袋(えぶくろ)をつけるという独特の風俗である。
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