古代の中国では、大陸の広大な地理的環境を包括して、全国土を治世できる理論を編み出す必要があった。そうした東南西北の地域における環境の違いを春夏秋冬の季節に置き換え、あらゆる気象条件を備えた地を揚げて、都として中央に据えた。五行思想の根本がそこにあり、大国設立を旨として南北民族の統一を図り、人の徳たる道を導く北の儒教と、神に至る術を説く南の道教との思想の習合が試みられた。
そんな空想と理想の論理が我が国にも伝えられ、実践地として満足させたのが美しい四季を持っていた京都だった。以来、権勢が京の地から離れることはあっても、四季文化を厳密に踏襲して執り行れてきた年中行事や儀式典礼をして、王城の地が京都から離れることはなかった。
このように、美しい四季の表情が政治と生活を彩り、ことごとくの物事と所作に五行思想の根本である色彩と文様が象られていった。さらに自然の道理を基とした規範が恒常化し、時代と共に様式化されて和風が完成していく。優美華麗に描かれる王朝文化と、貴族達が没頭する浄土教の華厳世界を飾る「和の雅」の色彩と文様世界に、中国古代の思想表現が明確に読みとれるといえよう。
平安の人達にとって色とはどのようなものだったろうか。五行思想では全ての物事の進化と後退の輪廻を五つの形に集約して説き、各々に黒・青・赤・黄・白の色を該当させて表している。その内容の充実を示して色彩は濃いほど貴ばれた。また紫・緑・紅・瑠黄・縹の清色と淡色を各々に従色として加え、全ての諸事の運行と表象に五色を配列してあてがった。そこに北と南の異なる環境事情を習合させて人事と政務の運用をしたのである。貴族達の位階に応じた服色や、朝廷での公私の色の別、日常における晴と褻けの色を使い分けて五行色彩の道理で綴られた。
また平安人は、こうした規律に従った色彩観念を通用させると共に、現実の微妙な自然界の色調をも物の本質として捉えて重要視した。四季・十二月・二十四節気・七十二候の微細な気候環境に呼応した多彩な色彩を観察して生活の中に採用していた。例えば、早春の草の芽生えから初夏の低木、夏の高木、そして秋の森林、冬の山端へと木々の成長と時間の経過、また人の視点を移して、黄色の苗色から萌葱、深森(みどり)、遠覆(あを)色と濃青に変化していく自然界の緑色の世界があり、これが平安時代から江戸時代までの日本の緑色の色調だった。自然の植物から得られる天然色素の色が単一色相の範囲に納まっていないのも東洋の色彩の特質である。西洋色体系の教育を受けてきた現在の私達が知らない色調の世界が存在していた。
十二世紀に記された『雅佐須計(まさすけ)装束抄』の「かりぎぬのいろいろやうやう」や「女ばうのさうぞくのいろ」に見るように、平安時代の服飾は五色の法則を基本としつつ、四季に移ろう自然の理に適った色彩の調和を模索して、雅な配色が創意されている。後世に称賛される「襲の色目」や「合せ色目」の配色が完成していた。
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