賀茂神社、すなわち上賀茂神社(賀茂別雷神社(かものわけいかずちじんじゃ))と下鴨神社(賀茂御祖神社(かものみおやじんじゃ))の祭礼が賀茂祭である。天智天皇六年(六六七)に始められたとされる。平安遷都後、両社に対する朝廷の崇拝が厚くなり、弘仁元年(八一〇)には嵯峨天皇皇女、有智子内親王が賀茂斎院(かものさいいん)となった。賀茂斎院は伊勢神宮の伊勢斎院に倣(なら)っておかれたもので、その神社の神に仕えるために選ばれた女性皇族。斎王(さいおう)ともいう。賀茂斎院は鎌倉時代の土御門天皇の頃まで、約四百年続いた。
祭日は下鴨神社の祭神、玉依姫命が、上賀茂神社の祭神、賀茂別雷命を生んだ日、すなわち四月の中の酉の日(二回目の酉の日)とする。これに先立ち、斎院は鴨川で禊(みそぎ)を行った。祭の当日は、勅使(ちょくし)が参向し、朝廷からの幣(へい)と馬を奉る。勅使と斎院はまず宮中を出発して下鴨神社に参詣、そして上賀茂神社へと向かう。
その行列は数百人で構成され、盛大かつ華麗なものであった。当時単に「まつり」といえば賀茂祭のことをさすほどで、都中の関心を集め、群衆が見物し、しばしば見物場所をめぐっての喧嘩騒動が起こった。『源氏物語』「葵」の巻で、葵の上と六條御息所の従者たちがおこした「車争い」は有名で、しばしば『源氏物語』の名場面として絵画にも描かれた。
なおこの日、行列の構成員の頭、牛車、社の建物や柱、几帳、御簾と、あらゆるものに二葉葵(ふたばあおい)を付けたが、これは二葉葵が賀茂神社や賀茂祭を象徴する草であり、賀茂の神が二葉葵をもって自らをまつれと託宣したことにちなんでいる。
賀茂祭は、当時の一大イベントであり、『源氏物語』のみならず文学作品にしばしば取り上げられ、枚挙に暇がない。
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