平安時代の競技
平安時代の遊戯や競技は、年中行事のなかで決まった一定の日に行われることが多かった。正月の毬杖(ぎっちょう)、三月三日(上巳)の闘鶏(とうけい)や曲水(ごくすい)、五月五日(端午(たんご))の競馬(くらべうま)、七月七日(七夕(たなばた))の相撲(すまい)、といったぐあいである。遊技や競技が儀式化し、行事とともに整理されていったことを示しているが、同時に厄除や福徳などに対する呪術的な信仰の要素もあったであろう。
毬杖(ぎっちょう)
正月の遊びといえば、現代でも凧揚(たこあげ)や独楽(こま)遊び、羽子板(はごいた)やカルタなどを思い出すが、平安時代ではこの毬杖がそれに代わる代表的な遊びであった。大陸から伝来した競技で、棒の先に木製の槌を付けたスティックで木球を打ち合う。大陸ではもっぱら騎乗して打ち合う遊牧民族の遊戯(ゆうぎ)であったが、これを打球(だきゅう)といって区別する。西回りにヨーロッパへと伝えられたものが「ポロ」になる。原本が平安時代後期に描かれた『年中行事絵巻』には、正月の行事の場面に京内の道路で、毬杖に戯れる少年の姿が描かれている。また、現在も京都市内の遺跡からは、ときおり毬杖のものと考えられる木製の槌や球が遺物として出土する。
江戸時代には、木製の棒の代わりに紐を槌につけ、振り回して球に当てたり、槌に車をつけて引き回したりして遊ぶようになった。これを「ぶりぶり」といい、その形が愛されて、置物や香合などに作られ正月の飾り物になった。
蹴鞠(けまり)
鹿皮で作った鞠(まり)を数人で落とさないように蹴り上げ、回していく競技である。大陸から伝来し、平安時代の貴族に愛好された。平安後期には、動作や装束、場所などの細かい規定が定まり、「蹴鞠道(しゅうきくどう)」として儀式化し、伝習する特定の家が定まるようになった。蹴鞠を行う施設を「懸(かかり)」といい、四隅に柳・桜・松・楓の四種の木を植える。鞠を蹴る演技者を鞠足(まりあし)といい、四隅の木のもとに二人ずつの計八人を配置する。ほかに野臥(のぶし)という介添(かいぞえ)役が鞠足に一人ずつつく。そして見証(けんしょう)という監視役が、動作の状態や回数を見て、鞠足の優劣を判断するのである。現在では蹴鞠専用の鞠水干(まりすいかん)という長絹の直垂(ひたたれ)様の上衣に葛袴(くずばかま)を履いて鞠を蹴るが、平安時代には束帯(そくたい)や直衣(のうし)を着て蹴った。『源氏物語』「若菜」上の巻では、源氏が公達たちに蹴鞠をさせていたとき、走り出た猫の綱が御簾(みす)を引き揚げ、その隙間から柏木が女三宮の姿を垣間見て恋に陥る、という場面がある。
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